前原先ほど岡山会議と言いましたけれども。OASISはたまたまの天体イベントである程度観測を受け入れていたし、山下君が頑張ってくれて、そのころには泉浦君にも入ってもらったような気はするのだけれども、違うかな。
泉浦ここではないですけれども、1回ぐらい話に参加したかもしれないです。
前原OASISに引き続くものをつくろうではないかという議論が始まって、今でも動いていますけれども、HIDESですね。後で泉浦君にたっぷり語ってもらうといいのですけれども、時間的には私が所長の時代にHIDESの製作。OASISの製作とHIDESの製作があって、188センチ望遠鏡は、本体はそのままでも、装置が新しくなったので、サイエンスとか研究という面ではぐんとパワーアップしたと思います。
泉浦3つ目標を立てたというように聞いた覚えがあるのです。赤外の装置を1つ、可視の高分散を1つ、可視の低分散を1つという。
前原そんな議論はした。
泉浦それを前原さんと、私の記憶では佐藤修二さんと海部さんと、あと何人かわからないですけれども他の方も交え、何回か会合を持って方針を立てたという。
前原泉浦君は余り覚えていないかもしれない。吉田道利君などは結構そこに何度も出ていてくれた。
泉浦そのころは多分吉田さんはここのメインユーザーだったと思うのです。
前原そうだね。
沖田ちょうど三鷹に移って二、三年したころだったと思う。あのころは佐藤さんと同じ部屋にいたから。
前原観測所側としての、いわば将来計画。すばる望遠鏡ができたときにどういう運用にするか、そこに持っていくかというような話をかなり真剣にやっていましたね。それがある意味で言うと実現した。今から考えてみるとね。
沖田岡山が国を挙げての建設だったので、その後、使い方はやはり共同利用でというのが正式に決まったのは国立天文台になってからなのです。共同利用という言葉をちゃんと使い出したのは。
泉浦1988年だったのでは。
沖田共同利用も、実質的な共同利用はやっていて、そういう使い方をするというのが、多分いろいろなほかの分野でも先んじてやられた組織だったと思うのです。それで「すばる望遠鏡」ができて共同利用は一番最初に考えてつくるとか、そういう雰囲気が生まれていったのではないかなと。
泉浦そうだと思います。岡山の経験、野辺山の経験を経てですね。
沖田そうです。ここができて少し後に野辺山宇宙電波観測所ができて、そこで共同利用というものが随分叫ばれました。ということは、そういう共同利用という形をつくり上げていったというか、その先駆けとなったのは岡山も少しはありますよというような気はしているのです。
前原当時の言葉で言うと、大学共同利用機関という言い方をしていたと思います。ここよりも宇宙研のほうが早かったのだけれども、理系の大きな研究機関はそちらへ移ろうと。文部省から移りなさいという感じになって、その流れに乗ったわけです。
沖田岡山天体物理観測所ができた当時は、ここは東京大学のものだったのです。だから、東京大学のものだから、東京大学が優先的に使えるという今までの物のつくり方としてはそうだった。京都大学だって花山天文台がありますけれども、あれは京都大学が優先的に使っていた。だけれども、ここができた時、共同でいろいろなほかの大学の人も使えるようにしようという形をつくっていったのが、ここが一番留意したことの一つだった。
前原この沿革に1961年に第1回の観測プログラム協議会を招集と書いてある。これです。観測プログラム協議会とは銘打って京都大学とか東北大学とかの先生、天文学者も来て、委員会をつくってプログラムをつくったわけだから、実質的には共同利用なのです、1962年からね。最初からそういうものではなかったかもしれないけれども、外部の人、外部委員を入れて、そういう体制で運用したというね。
沖田それは物すごく偉い判断だったと私は思うし、萩原さんがやってできた。それまでのように、これは東京大学がつくりました、東京大学の先生方、どうぞ使ってくださいというので、そのままでずっとやっていたら、共同利用という概念も随分後でないと出てこないということになるよね。
前原それはそうだし、もしそんなことをやったら、これだけの成果は出なかったと思う。
沖田もちろんそうです。
前原主に国内だけれども、研究者、天文学者が来て切磋琢磨したということが大きいと思うな。
沖田だから、そういう先駆けになったというのは確かだろうなと思っています。それがいい方向だった。
前原共同利用を終了するに当たって岡山天体物理観測所のそういうあり方というのをちゃんと世間にも知ってほしいし、私たち自身ももう一回認識したいと思ってこういう話をさせていただきました。少し長くなったかな。
沖田こうやって文句を言えるという間柄も本当はいいのです。腹のうちはわからないけれどもね。
進行まだ聞きたいという感じですが、次は。「すばる望遠鏡」の建設をするときに人材が結構異動されたという話でしたけれども、技術的にも「すばる望遠鏡」に岡山で培われた技術が役立っていると考えていいのですか。
沖田それはこれだというのはわかりません。
泉浦やはり「慣れ」ではないですか。
沖田慣れだろうね。こういうものだという概念の中で動くのと全然知らずに動くのとではまったく結果が違うというようなこともあるだろうし。私が旗色鮮明にして前原さんに行ってきますよと言って出ていって、その後、湯谷さんも、海部さんに引っ張って来てもらったし、さらに倉上君、浦口君も。ここでうまく育ったなと思われる人をとっていったというのはあるのだけれども。
前原その最後の2人ぐらいは青田刈りっぽい。
沖田でも、そうやって交流は切れずにやっていた。
前原所長として残念ということで言わせてもらうと、そのようにしてすばる望遠鏡の建設時代に人材が流れた証拠は、私が入ったとき、ここの職員が全部で22名いた。13年いて辞めるときには13名になっていた。だから、1年に1人ぐらいずつ減っている。「すばる望遠鏡」とは限らなかったけれども、あの当時は特に定員削減という圧力がすごくかかってきた時代だったので。例えば電話交換手がここにはいたわけです。それを新しい自動交換機にしてあげるからと三鷹本部から言われて、その人のポスト分はなくなってしまうとか、そういうこともありました。
前原こうやって40周年記念誌のときに勢い込んで書いたことが、読み直してみると今でも生きているではないかと思ったことがあるのです。それは、岡山会議で「すばる望遠鏡」時代の岡山を議論したことです。
沖田「すばる望遠鏡」後の岡山というような言い方をしていましたね。
前原そうだね。「すばる望遠鏡」時代と言っていますけれども、後も含めて。40年周年記念誌には、構想として「京都大をはじめとする西日本の大学の天文学連合を作り、その基地として岡山天体物理観測所を活用するということである。このようにすれば大学はそのインフラストラクチャーを利用でき、国立天文台との研究環境の格差を改善できる。そして、サイトにあった望遠鏡に更新し、観測装置を開発することにより、特徴ある研究云々、教育ができる」ということが書かれています。今、大体は現実に起こっていることではないかと思うけれども。
泉浦そうですね。
前原大学までは当たっている。京都大学。ほかの大学までは多分無理だけれども。
泉浦大学連合をつくるところまでは至らなかったですね。
沖田でも、話し合いをしていろいろとやっているという、完璧ではないけれども、そういう時代になってきているのではないですか。
前原私に言わせると、20世紀の終わりぐらいのときに、こういう構想というものは現にあって、構想だからやはりお金や人がとれなければ話が始まらないけれども、それを京都大学の人たちが努力されて、結局、そこに近い方向に進んでいるのだろうなと思いますけれどもね。
沖田スピードが落ちてはいけないね。
前原それで先ほどの188センチのできるときの速さはすごいという話になる。10年で動いているのですから。
沖田もう一つ、188センチができたときに91センチをサブテレスコープとしてつくったというのは偉いと思った。
前原そうだね。
沖田あれは1つだけだったらもっと違う生き方をしなければいけなかったかもしれないけれども、そういう意味では91センチをつくったというのは偉い。
泉浦当初は74インチ(188センチ)が1台で36インチ(91センチ)が2台の予定だったのだけれども、計画変更があって36インチ1台は堂平に作られたということですね。最初は岡山に置く予定だったらしいです。
沖田今、3.8m望遠鏡を建てているところに置く予定だったという話。
進行今、ちょうど切りがいい感じですので、前半、このぐらいにして。10分ばかり休憩してください。おやつもございますので。
前原ヒートアップしてしまった。
沖田ヒートダウンしましょう。
(休 憩)