進行赴任されたころの活気のある岡山天体物理観測所のお話をもう少し聞かせていただけますか。
泉浦1967年はもう空は明るかったのですか。
前原まだでしょう。
沖田私が来たときは、夜、外を歩くときに懐中電灯がないと歩けなかったです。結構危なかった。
前原やはり70年代に入ってでしょう。
沖田その後、だんだん懐中電灯なしに歩けるようになって、随分明るくなったという感じがしましたね。
進行水島コンビナートはもうできていたのですね。
沖田水島はできていました。
前原でも、我々が水島より1年前に開所しているのです。だから、県に行って頼むときも、県知事さんがちゃんと協力した上でここをつくったという歴史は、私が光害に関するお話をしに行くときに「ですよね」と念を押すわけですよ。
沖田ここをつくるに当たっては、本当に国家事業の1つぐらいの重みでつくったので、協力もいろいろなところからしてくださっていたのですけれども、時代の趨勢というか、経済活動が急激に発展した社会はこうなるのだなという気がしますね。
前原でも、日本の経済もバブルがあって崩壊して、今はむしろ少し見直しがあるでしょう。だから、岡山もずっと悪いほうへ、悪いほうへ行っているわけでもないと思うけれどもね。
沖田悪いほうではないというように思わないといたたまれない。それでも、結構いろいろと研究成果もあるとは思うのです。その後、私、「すばる望遠鏡」をつくりに行ったものですから、「すばる望遠鏡」ができて、当初は「すばる望遠鏡」もすごい成果を上げていたのですけれども、最初はそうだけれども、だんだん「すばる望遠鏡」が今度はTMT(Thirty Meter Telescope)の関係でいろいろと歴史が変わっていくとは思うのです。昔はよかったなというのもある。
進行『天文台日記』※が登場したのは、大体何年ぐらいのお話なのですか。
沖田ここの副所長だった石田五郎さんが書いた『天文台日記』という本があるのです。あれは入所してから二、三年ではなかったかな。
進行1970年代前半のことですね。
天文台日記
岡山天体物理観測所元副所長、石田五郎氏の著書。
1972年(昭和47年)6月、筑摩書房刊。現在は中公文庫で読むことができる。
天文台日記 石田五郎著(中公文庫)
沖田まだ検出器が写真乾板の時代だったのです。だから、よく観測して撮影した乾板を暗室で現像する。現像時間を把握するのに歌を歌ったりして、これで何分とかといってよくやっていましたね。
前原私もやらされましたよ。大学院のころね。ちゃんと歌を歌いなが真っ暗な中で心を静かにして現像して。
沖田時間を計るのに、あのころ、清水実さんに教わったのだけれども、1分間、秒数を数えていくのに、「ゼロいち、ゼロに、ゼロさん……」と数えていくとちゃんとした人は1秒ぐらいしか違わないという。そういうことを真っ暗な中でやりながら、今、1分とかといって、そういう時代でした。
前原でも、物によっては写真乾板を入れるホルダーがあるでしょう。あれがもともとのサイズとぴったりではないものもあるわけね。そいつを真っ暗な中で、ガラスのカッターがあるではないですか。あれをスケールに当てて切るのだけれども、下手くそに切ると入らない。それをもう少し狭くしようとかやっていて結局全部割ってしまったりして、先生、済みませんという思い出がありますね。
当時使われていたガラスのカッター。ガラスカッターとガラス乾板(右)、乾板の箱(左)、乾板ホルダー(上)
沖田乾板を切るのは観測者の仕事というように決まっていたので、どうしてもだめという人は切ってあげましたけれどもね。だから、観測天文学というのはもう学問より先に技術を学ばなければいけないという時代でしたよね。今でもそう変わらないかもしれないけれども、コンピューターがちゃんと使えないともうだめだとか、そういうのは今でもありますけれどもね。
進行一晩観測して、すごく晴れていいデータが撮れたはずなのに現像で失敗しておじゃんになる。
沖田おじゃんになるということはありましたね。
前原あります。
沖田多分みんな1つぐらいは。
前原自分の関係していたものでもあります。それで先生に怒られてね。私も最初の大学院生で来たころの思い出というのは、そういう強いものが今でもありますね。やはり天文学の観測はこういうことをやらなければだめなのだということがすごくて、子供心でもなかったけれども、まだ若者心にきつく深く残りましたね。
沖田そのうち検出器がだんだん進歩して、CCDという検出器があると言って、今ならもう誰でも知っているような。そういうものでだんだん記録媒体が変わっていって天文学は進歩していったのだと思います。今はもうデータは全部電子データになってしまっている。それはそれで立派なことだと思うのです。そんな時代がありましたね。
進行そういった観測装置の変遷をずっと見てきていらっしゃるのですね。
沖田そうですね。見てきましたし、自分で手がけて、今から考えると、これは失敗だったなと思うようなものもあるのですけれどもね。本当に最初のころは、外国でこういうものがあるといったら、まず日本にその技術とか実物を借りてきてくっつけてみるという感じでした。そのためのアダプターをつくるとかということが最初のころは多かったのです。そのうちだんだんみんな理屈がわかっていくと自分たちでつくる。メーカーに頼むと物すごくお金がかかるし、もともと天文台はお金のないところでしたから、そんな時代がありましたね。
前原そもそも188センチ望遠鏡と言うけれども、あれはイギリスでつくって、74インチ規格でつくっているわけだからね。だから、ビスの1本から違ったのでしょう。インチ規格。
沖田そうです。全部インチなのでね。
前原それをセンチに直したら誤差が出てくるからね。かわりのものをつくったけれども、うまく入らないとか。これは1本折れたけれども、早速つくらなければいけないとかそういうものから始めて、私が知っているころになったら、もうほとんど中のそういうものは入れかわっているね。
沖田ここの望遠鏡ができたとき、世界で7番目ぐらいだったのかな。兄弟にあたる、同じ口径の望遠鏡が結構あるのです。今でもそれなりに動いているというのが。
泉浦5か6かありますね(注:実際に現役なのは他に3台)。
前原割合いい望遠鏡だよね。
沖田全く同じ望遠鏡がエジプトにあるのです。それがうまくいかないといって、結局、私は4回エジプトにそれを調整しに行きました。岡山に帰ってからなのですけれどもね。定年退職したのだけれども、吉田さんから電話がかかってきて、蒸着する釜がもう動かないから蒸着釜を見てくれということで行ったのです。真空度が上がらない、もう明後日には帰るという日に、電極のところをちょっといじったら真空度が急激に悪くなって。このパッキンが原因ではと指摘したら、有史以来、パッキンを交換していなかった。もう癒着してしまっている。次の日、向こうの天文台職員が同じような大きさのものをカイロまで探しに行って、似たようなものを買ってきた。それを使い試験すると真空度が改善した。その後、うまく蒸着したかどうかは知りませんけれども。そんなことがありましたね。
エジプト・コッタミア天文台
進行すごいですね。それはここで培われた技術を買われてエジプトに呼ばれてということですよね。
沖田エジプトも、望遠鏡メーカーももうないし、いろいろなところで伝手を探ってきたのでしょう。
泉浦あれは、もともとは二国間協力か何かなのですか。
沖田二国間協力になったのかな。
泉浦途中はなっていたと思います。学振の二国間協力に。日本の人が行くとみんな親切に、しかもお金を取らないで一生懸命やってあげるから、向こうからまた来てといってきましたよね。
沖田本当に砂漠のど真ん中でぽつんと1つだけあるのです。電気が来ていないから自家発電。夜は自家発電を動かすのだけれども、昼はみんな寝ているからとめていて、それで暑い。
泉浦同じようなことが鏡でもありましたね。鏡はドイツでつくり直したのですよね。
沖田そうですね。
泉浦その後の調整作業がうまく行っていなくて、例えばドイツや日本で望遠鏡の大メーカーに頼んだりしたら軽く1億円ぐらい取られるような仕事だけど、日本の国立天文台関係者に頼んだら、ほとんどただでやってくれた。
沖田そうです。鏡はソフトに下から支えているのですが、調整が良くなくて。その支え方が悪くなって1カ所だけ強く押したりなどすると星の像が乱れてくる、変な像になってしまう。そうなって使えないということだったのですけれども、あれは佐々木さんとか小矢野君も最初行った。あと観測装置がないとか、何もない。
前原そうだよね。I.I.分光器※はエジプトにあげたのではなかったかな。
I.I.(Image Intensifier)分光器
188cm反射望遠鏡カセグレン焦点の装置。クーデ焦点に於いてI.I.を使用しての観測が成功したのを受けて、微光天体のスペクトル観測を目的にI.I.専用の分光器が製作された。
沖田岡山にあった観測装置ですね。それは国内光学メーカーでつくったものだけれども、余り調子がよくなくて。
前原やはりI.I.そのものが少しヒステリックだから。
沖田それはもう使わないようになったから譲った。ちゃんと置いてありましたよ。
前原どこかに捨ててはいなかった。
沖田捨ててはいなかった。でも使えないだろうなと思った。
前原結局いくらいい観測装置を自分のところで持っても、そういうものを調整とか、メンテをきちんとやらなかったら、もうみんな使えなくなりますからね。
沖田ほとんどお金がないので、技術的なスタッフなどはゼロに近いのです。だから、言われたとおりにちょこちょことする。そういうことしかしない。だから、一度壊れたらもうだめというような状況なのです。給料もものすごく安いみたいです。少しいいところがあるともうすぐどこかに行ってしまう。あそこの観測所にいる研究者も給料が安いから、サウジアラビアで給料を倍にするとか言われたらすっと行ってしまう。今までずっと連絡をとっていた人がいなくなる。
泉浦優秀な人はサウジアラビアに移籍していくという話を聞きますね。
沖田そうです。それはそちらでやったほうがみんないいものね。そんな感じなので、これは余談だな。
進行そういう意味で、岡山の188cm望遠鏡は57年ずっと現役ばりばりで。
泉浦岡山の望遠鏡が一番ちゃんと動いている方だと私は思います。ほかのところを詳しくは知らないけれども。正確に言うと一番アクティブなのはフランスのオート・プロヴァンス天文台の193センチ望遠鏡。あれは少し大きいですが。
前原一回り違う。
泉浦でも、見かけはほとんど同じです。写真を見ると。それと、南アフリカのラドクリフ望遠鏡はここと同じ188センチです。その2つが岡山と並んで最もアクティブです。
沖田焼けたのはどこ。オーストラリアだったか。
泉浦オーストラリアは山火事で焼けました。カナダはもう運用停止になっています。デヴィッドダンラップ。
沖田岡山みたいにそんなに最新鋭の技術でやっているというのではなくて、ある意味ではアナログ的な、そういうものはちゃんとメンテすれば長持ちするのではないかな。
泉浦長持ちしますね。古いがゆえに細かい繊細な部品が少ないから。
前原今のパソコンとか本当に少し調子が悪くなったら素人では手の下しようがないものね。そういう点ではこういう古い望遠鏡というのはいいです。
泉浦オート・プロヴァンスの193センチ望遠鏡は、1995年に最初の系外惑星を見つけた望遠鏡なのです。
沖田そういえばそうでしたね。
進行そうやって装置があっても、そこと一緒に人材が育たないとなかなか長持ちはしないということでしょうか。
沖田岡山天体物理観測所ができたときにそこをちゃんとしたというのが正解だったのだろうなという気がします。いろいろなものを幸いか不幸か知らないけれども、私は見てきて、ここはそれなりに頑張ってやってきていたのだなという気はしますね。自分を含めて、それが一番誇りに思うことかな。
前原1年に2人ずつぐらい採用されて、その人たちがみんな育ったでしょう。
沖田私の前に採用された人がいたのだけれども、すぐやめてしまったことが何人か続いたらしくて。それで清水実さんが私と清水康さん、同期で入ったのだけれども、すぐにやめてもらったら困るからと言って。清水さんは官舎に一人住まいしていたのだけれども、私たちも官舎に入って、夜な夜な酒を飲みながらいろいろと話をして、あそこを遊び場にしよう、アミューズメントセンターにしてやろうと言って、みんなが集まって。そういう意味でも結構若い人が残っていったのかな。若い人、私の後に小矢野君と湯谷君か。その後、大分途切れたけれども、長山君もいましたね(注:その前に、倉上さん、浦口さんが着任されている)。
前原第1期生から言うと、野口さん、乗本さんでしょう。
沖田渡辺さん。
前原渡辺さん、それから、中桐さん。あの辺は2人、野口さん、乗本さんは亡くなっているけれども、最後まできちんとここでいい仕事をしていたでしょう。野口さんは転勤したかな。