私が岡山天体物理観測所(以下、岡山観測所)の所長をしていた時期は、ある意味、岡山の転換期であったように思う。2000年にすばるが共同利用を開始し、日本の光赤外線天文学の主軸はすばるに完全に移行した。このような情勢の下、どのように岡山観測所を運用していくのかが、私に課せられた大きな課題であった。
すばる望遠鏡の建設が本格化した1990年代半ばから、幾度となく岡山の将来について議論が重ねられた。観測所そのものの廃止論から、実験望遠鏡化に至るまで、いくつかの将来像が語られたが、結局私が取った方策は「共同利用の継続」であった。当時、私に明確な将来像があったわけではない。ただ、国内にある望遠鏡として、188cm望遠鏡は目的を絞れば、サイエンス・教育において十分その役割はあるであろうとの確信はあった。そこで、まず、すばる時代には岡山での需要は激減するであろうと思われた可視光分光器(新カセグレン分光器と呼ばれていた)の廃止を行った。国内の観測条件でも十分データの取れる高分散分光と近赤外線観測に観測装置を絞ったのである。丁度その頃、岡山の新しい高分散分光器としてHIDESが立ち上がり、定常運用に入っていた。
ところが、この方針を取った直後に、大きな問題にぶち当たった。ユーザー数の減少と固定化である。検出器・光学系改修のために近赤外線観測装置OASISの共同利用を停止し、共同利用観測装置が実質的にHIDESのみとなったことも、その傾向を加速した。その結果として成果論文も減少した。2003年ごろには査読論文数が年間10本を大きく割り込むようになった。この状況を見て、当時の私は相当に焦った。論文数の減少もさることながら、ユーザーコミュニティの縮小傾向に危機感を覚えたのである。少数精鋭と言えば聞こえはいいが、それは先細りと表裏一体である。岡山の気象条件がいくら高分散分光に向いているとは言え、やはりそれだけでやれるサイエンスは限られていたのである。OASISの一刻も早い復帰(2006年ごろにISLEとして復活した)と、可視光の低分散分光撮像装置の整備が望まれた。幸い、当時、京都大学が開発した京都3D分光器1号機がPIタイプ装置として観測所にあった。可視光の分光撮像機能は、この分光器を京都大学から譲り受け、検出器などの改修を行って実現することを目指した。
このような努力を続けている間に、しかし、HIDESを巡る極めて重要な動きが密かに進行していた。当時はまだ大学院生であった佐藤文衛氏が、精密視線速度測定による系外惑星検出を、HIDESを用いて行う計画を進めていたのである。彼は、中質量星の進化後期にあるG型巨星に目を付け、巨星を周る惑星の検出を目指していた。精密なスペクトル波長校正のために必要なヨードガスセルは、やはり精密視線速度測定を観測手段として用いる星震学のプロである神戸栄治氏によって製作され、2000年にHIDESに装着された。佐藤氏、神戸氏、安藤裕康氏らからなる研究チームは、ヨードガスセル付きHIDESによって近傍の巨星の視線速度モニターを2001年より開始した。おおよそ2年間のモニター観測の結果、遂にG型巨星HD 104985を周る惑星を発見した。それ以来、私の所長在任中に、この分野の成長ぶりは著しく、岡山観測所は系外惑星探査の拠点となった。 佐藤氏や他の研究チームが視線速度精密測定によって、岡山の科学的レベルの水準を引き上げてくれている一方、装置開発も進み、ISLEや京都3D分光器を改造したKOOLSが共同利用に投入され、多様な研究を行える環境が岡山に戻ってきた。それとともに徐々に論文数の回復が見られ、ほっと一息ついたことを覚えている。
私の在任中に観測所に持ち込まれた装置として、HBS(偏光分光測光器)の存在も忘れることはできない。HBSは堂平観測所で開発された低分散の偏光分光装置であり、堂平が閉鎖された後は岡山の91cm望遠鏡で運用されていた。この装置は開発開始から完成までに予想外に時間を要し、また、その完成前後に開発チーム内で不幸な衝突があった。私は国立天文台が組織した「5人委員会」のメンバーとして、チーム内衝突の原因解明と調停に当たった。我々の力不足により、この問題は関係者間の最終的な合意に至らなかったが、岡山の所長として、私はHBSの岡山への受け入れに同意した。偏光観測機能を持つ装置の性能はユニークであり、十分な成果を挙げるであろうと見込んだからである。91cm望遠鏡は、柳澤顕史氏による広視野近赤外カメラ(OAOWFC)への改造計画が2002年ごろから開始され、そのため、HBSは188cm望遠鏡での運用を行うようになった。HBSの運用は、私が退任する2009年まで行われた。
2004年には河合誠之氏のMITSuMEプロジェクトの一環として岡山に設置された50cm望遠鏡が稼働を始めた。この望遠鏡および装置の設計、製作、運用については、柳澤氏、清水康広氏、長山省吾氏など、観測所員が大きく携わり、岡山としては初の完全ロボット望遠鏡となった。もともとガンマ線バーストの光学追跡が主目的であったが、運用を担当した戸田博之氏、黒田大介氏らにより、彗星や小惑星などの観測にも活用され、多くの成果を挙げている。この望遠鏡の設置によって、岡山観測所内に突発天体観測の重要性が認識されたことは大きい。そのスピリッツは、京大3.8m望遠鏡にまで引き継がれていると考えている。
このように、2000年代の岡山観測所は、日本の光赤外線天文学コミュニティを大きく変えた「すばる望遠鏡の稼働」を背景にしながら、自らも最適な道を探り変革をしていったと言える。それは必ずしも予め予期し設定されていたものではなかった。むしろ、その時々のサイエンスの動向に沿ったユーザーからの働きかけに柔軟に対応した結果であった。そのような柔軟さを持てたことが、岡山観測所を生き永らえさせ、さらに独自の発展を導いたものと考える。
岡山観測所の主軸は、京都大学の3.8m望遠鏡に移り、188cm望遠鏡を中心とした岡山観測所の共同利用は幕を閉じた。しかし、既存の望遠鏡 ― 188cm、91cm、50cm ― は、すぐに活動を止めるのではなく、新たな運用形態・組織の下、稼働を続ける。岡山の地は、世界的に見れば優れた天文観測サイトではないとは言え、日本国内では依然ベストサイトの一つである。ここに集結した望遠鏡群が、それぞれに見合ったサイエンスに活用されることは、日本の光赤外線天文学の多様性を担保するために重要と思われる。多様性は力である。
本稿では、私が所長を務めた10年足らずの間の出来事を中心とした。もちろん、他にもこの小文では書ききれない様々な活動があったし、私が所長に就任する前の岡山観測所の長い歴史が、観測所の底力となって蓄積されていた。私が所長を退いた後も、泉浦所長のリーダーシップの下、岡山観測所の成果は増え続けた。岡山観測所の共同利用を支えてきた全職員の方々と、観測所を存分に活用し優れたサイエンスを展開してこられた全ユーザーの皆さんの努力とその成果に対し、心から敬意を表したい。
188cm望遠鏡共同利用の終焉は、観測所の終焉ではない。新たな出発である。これからの岡山観測所のより一層の発展を期待しつつ、本稿を閉じることとする。