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日本の「時」をつかさどる
国立天文台三鷹キャンパスの一角、ともすると生い茂る草の丈に埋もれそうな碑(いしぶみ)があります。「日本の時刻決定の基準点」と記されたこの記念碑は、かつてここで日本の「時」を決めるための観測が行われていたことを物語っています。
現在私たちが使用している時計の一つ――たとえば電波時計は、標準時を発信する電波を受信して自動的に時刻を合わせています。またコンピュータの時計は、標準時を配信する専用のサーバと通信して時刻のずれを補正しています。こういった日本国内で使われる標準時(一般的に日本標準時、法令では中央標準時という名称が用いられます)を知らせる報時信号は、現在は情報通信研究機構(NICT)が送信しています。世界各地の標準時は、国際的に定められる「協定世界時」が基準になっていて、日本の標準時は「協定世界時+9時間」と決められています。この「協定世界時」は、世界中にある、極めて精度が高く安定した原子時計という時計を使って維持され、日本では、国立天文台、情報通信研究機構(NICT)、産業技術総合研究所(AIST)などにある原子時計群が、その一翼を担っています。国立天文台の原子時計群の維持・運用は、かつては三鷹で行われていましたが、現在はその役割を水沢キャンパス(岩手県奥州市)の天文保時室に移しています。
原子時計が登場する前、標準時は地球の自転運動に基づいて決められ、それは「子午儀」という特殊な望遠鏡を用いた天体観測から導かれていました。ある基準となる地点で恒星が子午線を通過する(正中する)瞬間を観測し、恒星の赤経や観測地の経度を正確に求めて、そこから標準時を算出します。かつて日本の標準時決定の観測を担ったのは、国立天文台(当時は東京天文台)三鷹キャンパス内の「連合子午儀室」という観測棟に納められた複数の子午儀でした。現在はもうその建物はなく、跡地には別の研究棟が建てられましたが、子午儀が置かれていた台座の一つが残され、そこに記念碑が設けられたのです。この子午儀による日本の標準時決定の観測は、1924年(大正13年)から1955年(昭和30年)まで行われました。
この大役を果たした子午儀の一つが、口径90ミリメートルの屈折望遠鏡を搭載したドイツのカール・バンベルヒ社製の子午儀(通称バンベルヒ子午儀)です。役割を終えてからは解体され、表舞台に出ることはありませんでしたが、現在はみごとに復元されたその2台の子午儀の姿を、子午儀資料館(レプソルド子午儀室)で目の当たりにすることができます。
参考リンク
文;小野智子(国立天文台 天文情報センター)