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改暦150周年企画(前編):時代の変化と日本の暦―古代・中世―
日常の中の暦
皆さんは「暦(こよみ)」を意識して生活しているでしょうか。
暦とは、一言でいえば、長い時間の区切りをつまびらかに表現する方法のことです。古くは農作業の開始時期を、天球上における星々の形(後の星座)等から予測していたとも言われ、一年の中で自分たちがどの季節、または時期にいるかを知るために必要でした。これは現代では、カレンダーと言う形で、皆さんの家やスマートフォンの中に収められていることでしょう。
また、日の出入り、月の満ち欠け、日食月食などの天体現象や、潮の満ち引きなども暦に含まれることがあります。これらは新聞の「あすのこよみ」欄をはじめとして、テレビや各種ニュースサイトで目にすることがあるでしょう。
意識せずとも、暦は現代においても、皆さんの生活の中に息づいているのです。
古代世界の暦
では暦とは、いつ頃から文字として記録に残るようになったのでしょうか。
例えば古代メソポタミアでは、暦の一年の巡りを季節に合うように調整した「太陰太陽暦」が使われたと言われており、そのほかにも古代エジプト、中国などで、それぞれの暦が使われていました。
紀元前1世紀頃の古代ギリシャでは、機械式天文・暦計算機の「アンティキティラの機械」が設計および製作されていました。アンティキティラの機械は、手回し式歯車仕掛けの天文・暦計算機であり、365日の古代エジプト式カレンダーや黄道十二宮を表示し、さらに日食・月食の予測ができたと考えられています。また、機能の一部として、太陰太陽暦を作ることもできました。この機械は、西暦1901年にギリシャのアンティキティラ島付近でのサルベージ調査により破片の存在が確認されてから、これまでにX線等を用いた詳細な研究が行われています。(詳細は関連リンク)
日本の暦(古代―中世)
日本に暦が伝来したのは、諸説ありますが、6世紀から7世紀はじめ頃と言われます。『日本書紀』の巻第十九には、欽明天皇14年(553年)6月、百済に医博士(くすしのはかせ)、易博士(やくのはかせ)、暦博士(こよみのはかせ)等の交代や暦本の送付を依頼したとの記事があり、この頃には暦が意識されていたことが分かります。
編暦体制の確立は、大化の改新以降、すなわち、日本が律令国家へ変化する中で行われました。中務省に陰陽寮(おんようりょう)が成立します。この中に、陰陽頭(おんようのかみ)を筆頭として、暦博士、暦生(れきしょう)が置かれ、暦編纂(れきへんさん)の体制が整いました(同様に陰陽師、陰陽博士、陰陽生(おんようしょう)、天文博士、天文生(てんもんしょう)、漏刻博士(ろうこくはかせ)なども置かれました。ただし、この頃の「天文」は、まだ現代の天文学とは異なり、天文現象・気象現象から天の意思を読み取り、吉凶を判断することが目的であったようです)。
その後複数の暦が用いられますが、貞観4年(862年)に宣明暦(せんみょうれき)が採用されました。宣明暦は本家の中国では71年ほどで改暦されていますが、遣唐使の廃止(894年)で中国との交流が途絶えるなどして、日本においては江戸時代初期まで、およそ800年間にわたって使い続けられることになります。
次回は、活発になる日本の暦法研究の歴史を、江戸時代から現代にかけてひも解いていきましょう。
(補足) 歴史的用語のよみがなについて:本稿では、多くの歴史的な用語を取り上げています。ここでは「陰陽寮」や「易博士」などの機関や官職などの名称、「安倍晴明」などの人名に、代表的と思われるよみがなを付しています。ただし、漢字表記に基づく漢音の読み方のほかに、和名や異なる読み方の慣習もあり、一通りに定められるものではありません。
関連リンク
文:柴田雄(国立天文台 天文情報センター 暦計算室)