共同利用完遂記念 座談会
〜岡山天体物理観測所が果たした役割とこれから〜

日時: 2017年8月11日 午後1時から午後4時
場所: 岡山天体物理観測所 応接室
参加者: 泉浦秀行 所長(在籍期間 1996年7月から2018年3月)
前原英夫 元所長(在籍期間 1988年2月から2001年3月)
沖田喜一 元職員(在籍期間 1967年4月から1989年4月、2002年6月から2013年3月)
進行・記録・撮影: 戸田博之(岡山天体物理観測所)、福井暁彦(岡山天体物理観測所)、長山省吾(国立天文台 天文情報センター)、夏苅聡美(国立天文台 天文情報センター)
注:肩書きはインタビュー実施時のもの

進行皆さん、お忙しい中お集まりくださり、ありがとうございます。岡山天体物理観測所の共同利用が終了するにあたって、ウェブ版で記念誌をつくろうということになりました。その目玉企画として座談会を開催したいと思います。
 岡山天体物理観測所の開所からというと無理がありますが、長い歴史の全体を俯瞰しつつ、昔のことや岡山天体物理観測所の成果等を語っていただいて、最後に、これで終わりではない188センチ望遠鏡に対し、皆さんの期待とか思いを寄せてもらえればと言うことでお集まりいただきました。
 最初に各自自己紹介をしていただいて、その後、時代に沿って少しずつお話を伺いたいと考えています。もちろん脱線していただいても全然構わないので、お好きなように話してください。

沖田これは全国的に開示されるんですね。ウェブ版だから。

進行そうです。出ます。

沖田真面目に話をしなければいけないねえ。一番苦手なことです。

前原わかるわかる。私もそう。

進行もちろん、後で編集はいたします。それでは、まず沖田さんから自己紹介をお願いいたします。

泉浦年齢順ではないのですか。上から。

前原今どき高齢者を余りこき使うものではない。いやいや、いいですよ。私、最初にやりますよ。だけれども、ここにありますように在任期間とかは書いてありますので、あとは私が適当に自分の話したいことを話します。
 まず、自己紹介ということで、前原英夫と申します。元所長というか職員です。私がここに職員として来たのは、1988年。これはちょうど東京大学東京天文台から国立天文台に改組があった年ですね。ですけれども、私自身はもっとずっと前の、職員リストを見ると1960年代のどこかで大学院生のときに、先生に連れられて、最初は観測助手として来て、1週間くらいいて、いろいろやって帰るというようなことをやっていた。博士課程になったときには自分のテーマがありますから、今度はそれがミラ型星という長周期の変光星なものですから、月一ぐらいでここへ出入りしていたというころがありました。その後、長野県の木曽観測所、シュミット望遠鏡をつくるチームに加えられまして、就職としては、そちらが最初です。その後、十数年勤めてから1988年に岡山天体物理観測所に来たということですね。
 多分所長は1992年から9年間やっていると思いますけれども、ちょうど20世紀の最後のところをやらせてもらって、3代目ですから一番危機的状況だったのです。というのも、私から見ると、「すばる望遠鏡」をまさにつくっている期間にぴったり合っているのです。それでお金も人も結局そちらのほうが大事ということで、こちらが二の次になってきて、議論をしているうちに観測所規模を縮小するとか、あるいは閉鎖を考えたほうがいいのではないかとか、議論がある中で所長をやりましたので、多分そのころは今よりずっと怖い顔をしていたと思います。今はそういう役目が全部終わりましたので、このような顔をしています。
 自己紹介を余り長くやってもいけないでしょうけれども、私、ここへ転勤するときに、たまたま旧鴨方町、今の浅口市ですが、そこに家を建てていまして、結局そこが終の棲家です。その後十何年、私の部屋の窓からここのドームやら本館が見える、そういういいところに住んでいます。

進行家を建てるときに窓から観測所が見えるように設計したのですか。

前原いやいや、設計はもうできていて、たまたまなのですけれども、この部屋だったらちょうどいい。観測所から見ると南でしょう。向こうから見ると北向きなのです。北向きの部屋だけれども、2階のその部屋が自分の居場所と決めている。そういうことで切っても切れない岡山天体物理観測所と、正式名称は余り言ったことがないけれども、そこのスタッフであり、関係者です。

沖田私は沖田喜一です。元ここの職員で、1回ここから転勤して、また帰ってきたというような歴史を持つのですが、実は、この3人の中で一番最初にここに来たのは私なのです。今、職員リストをくってみると、1967年ですね。

前原4月でしょう。

沖田高校を卒業してすぐにここへ入ったのですが、ここに来るつもりは全然なかったのですけれども、とにかく研究所だから勉強できるなと思って入ってきたのですが、勉強しませんでした。私が入ったころのここの観測所というのは、ちょうど開所から7年ぐらいたっていて、一番活気が強かった時分ですね。

進行ちょうどいい感じに落ちついたころではないですか。

沖田そうです。開所してからわやわややっていったのがだんだん観測成果も出てきて、日本で一番大きな望遠鏡ということだったので、本当に最先端の天文を学んでおられる方々がここに来ていろいろ観測をされたという時期でした。
 私の仕事というのは、望遠鏡をオペレートすることと、それから、観測装置等の改良とか、それを保守改良するというようなことが主だったのですが、とにかく日本に1つしかない大きな望遠鏡だったので、いろいろな新しい観測装置ができると、ここに皆さん持ち込んでそれを試験して、それで観測するというようなスタイルが結構続きましたね。
 お金がそんなに潤沢にあったわけではないので、新しい観測装置は自前でつくることによって少しでも安くあげようというような思いがあって、それに一所懸命やっていたころ。そのころは文部省の管轄でしたから、身分は文部技官という役職だったのですけれども、そういう方が6人か7人いらっしゃったかな。
 先輩方もいらっしゃったのですが、結構活気があって、みんな若かったですから。私が入ってくるまでは、その当時のこの地域での優秀な人たちが応募して採用されたという。結構すごい人たちがいたなという印象が強いですが、その一員となっていろいろとやってきました。
 思い出はいっぱいあって、失敗した観測装置の作成に当たったとかあるのですが、成功したのもあるし、そういうことで日々やっておりました。みんな若かったから、よく昼休みなどにこの狭い山の中で野球の練習をして、野球部があって、町内の野球大会では何度か優勝した。一度だけ最優秀選手に選ばれたことがあるのですが、いまだにちょっとした盾があるのです。そんな思い出が大きいです。
 そのころ、ここでいろいろやっていたというのですが、仕事はオペレーション。夜、観測に来る天文学者と一緒になって望遠鏡をオペレートして観測するということにずっと携わっていて、そういう意味では今で言うと結構立派な役職につかれておられる先生方の若いころを一緒に過ごしてきたというのがあって、こういう人たちに負けてはいけないというような気持ちだけはありました。そういう思いでいろいろやっておりました。
 そうこうするうちに、日本の望遠鏡が188センチでは物足りなくなったということで大きな望遠鏡を作りたいといって、まず最初に4メートルクラスを作ろうといろいろ検討したのです。この近くでいいところがないかというので、以前、ここで技術のリーダーをやっておられた清水実さんという方と一緒にどこがいいかとか調べて歩いてみたりしていたのですが、その4メートル計画もいろいろと紆余曲折して潰れてしまって、そのうち、大きい望遠鏡を日本が作るのだったらもっといいところにつくろうよと。ここもいいところだったのですけれどもね。そういうことでハワイに建設するということがあって、それが少しずつ動き出していたころでした。その少し前に前原さんがここの所長になられて、1年ぐらい一緒にいたのですね。たしか。

前原そうだね。

沖田その後、私は三鷹に移り、申しわけなかったのですけれども、「すばる望遠鏡」建設のほうにずっと携わりました。

前原泣く泣く送り出しましたよ。

沖田それで「すばる望遠鏡」建設が終わり、今度は、京都大学で4メートルクラスの望遠鏡を国内に作ろうという話が持ち上がり、お前帰って携われとの命を受けました。私、出ていくときはもう帰ってきませんと出ていったのだけれども、帰ってきまして。結局、私が在職中は予算がつかなくてできなかったのですが、もうじき観測を開始すると思います。
 そういうことで、最後にもう一遍ここに帰ってきたときにいろいろなことがあってね。だから、その前に40周年のときに、40周年だからもうあと50周年はないだろうと言って、立派な40周年の記念誌をつくったのです。帰ってきたら50周年になってしまって、50周年記念をやるとかというので、そのときにちょうど所長が広島大学に転出したのですね。それでいなくなって、おまえを副所長に任ずると、手当ても何もつかない副所長を半年ほどやったのです。その後、泉浦さんがここの所長になって、今に至っているわけですけれども、その50周年のときはもう本当に大変でした。ちょうど私ごとのことだったのだけれども、岡山県で国民文化祭というイベントがあって、それの企画、ある演劇関係の、趣味で演劇などをやっていたものですから、演劇関係。

前原彼は趣味が広いものね。

沖田演劇関係の企画委員をしてくれというから、委員ならいいやと思ったら委員長になってしまって、もう物凄く大変でね。こうやろうと思うのに企画委員の中に猛反対するようなのがいて1つもまとまらない。演劇などをやっている連中はもう自己主張が強くて、実際問題として1つもまとまらないのです。そのことと50周年と重なってね。ちょうど秋、もう死ぬかと思いながら、でも死ななかったので、こうやってここに出席しています。
 長々とした自己紹介になりました。

前原この辺がその頃の写真だね。

写真

1969年 天文台野球チーム

進行野球部ですか。

前原有志のこういうものがいっぱいあったけれどもね。

沖田ありましたね。

前原その中から何枚かいいのを40周年のときに。

進行記念誌に掲載されている写真がありますね。では最後に泉浦さん、お願いいたします。

泉浦泉浦です。1996年7月から在籍しているのですけれども、今年でもう勤続21年になって、勤続21年ということは多分沖田さんよりも前原さんよりも勤続年数では長いのではないかと(実は沖田さんの一回目の在職期間1967年4月-1989年4月の方が長いことが後で判明)。最古参になった自分を見て恐ろしいなと思っています。最近、観測所の所員の名簿を見ていて、自分が最古参で一番長いというのを見ていて、やり切れない気持ちで、何がやり切れないかは置いておいてですね。
 それで2010年からは所長。吉田さんが2009年いっぱいで広島大学に転出されたので、その後、ちょうどそのときに岡山天体物理観測所をどうするかということで、割とドラスチックな方針が国立天文台長から可能性として出されて(泉浦氏の別記事参照)。どうするかというので大分そのときに揺れたのですけれども、その後、10月から所長に就任して今に至っています。就任してからまだ7年になっていないのですけれども、今年の9月いっぱいで7年になって、来年までで7年半ということです。
 当時、観測所を閉めるより他の選択肢が全然無かったということではなかったと思います。自分の個人的な印象として、いろいろな世の中の趨勢を見るにつけ、岡山観測所は閉めるにはまだ早いけれども、今までみたいに手厚く観測するのもどうかな、というところでした。今後ほどよいところに落ちつくのではないかなと思っています。それはこの後の話でまたお話しできたらと思います。簡単ですけれども、以上です。

進行ありがとうございます。
 早速時間が押しぎみですが、時代を追ってということで沖田さんからまたお願いいたします。