日本における金環日食(2012年5月21日)への取り組みとその成果について
―リスク・コミュニケーション面からの検証―

Y26a 金環日食観察への対応は適切であったか? ―リスク・コミュニケーション面からの検証―

縣 秀彦(国立天文台)

1. はじめに

2012年5月21日、日食が日本各地で観察されました。今回の日食では、九州地方南部、四国地方南部、近畿地方南部、中部地方南部、関東地方など広範囲で金環食が起こり、金環にならない地域でも全国各地で食分の深い部分食となりました(図1)。金環帯にはおよそ8300万人が住んでおり、金環帯はもちろん金環帯以外でも多くの人たちが日食を観察することが事前から予想されていました。太陽を観察することは眼に障害を生じる危険を伴います。例えば、1912年のドイツ日食の際には、3,500名の日食網膜症患者が発生しています(文献1)。

日食網膜症は、明るい光源を見たことによって網膜に生じる損傷を指し、曝露直後から1日以内現れ、数週間から数ヶ月、ときには数年以上も持続します。症状としては視力低下、霧視、暗点、変視症などが生じます(文献2)。このため、いかに眼の損傷を減らすかが、日食情報提供において重要な点であり、天文学の普及活動では珍しいメディアや集団・個人に対するリスク・コミュニケーションが要求されました。本研究の目的は、国立天文台はじめ日本の天文コミュニティーが取り組んだ日食でのリスク回避の取り組みを点検・検証し、今回のリスク管理や、天文情報を適切に市民に伝える上での問題点を明らかにすることにあります。

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2012年5月21日の金環日食・部分日食の経過:2012年5月21日の金環日食・部分日食の経過

2. リスク認知その1 日食網膜症の原因についての認知

2009年7月22日には、トカラ列島や小笠原近海で皆既日食が起こり、国立天文台始め天文コミュニティーでは、全国各地で観察される部分食を含め、市民や子どもたちに眼の損傷を生じないよう適切な観察方法をウェブやニューズレター、書籍・雑誌等で紹介しましたが、当時は、日食網膜症の原因として眼には感じない赤外線の危険を訴えていました。これは日本の天文関係者のほとんどが、当時、赤外線が危険と考えていたことによります。

ところが、国際非電離放射線防護委員会(ICNIRP)による「広帯域の非コヒーレント光学放射に対する曝露限界のガイドライン」(文献3)によると、日食網膜症の主たる原因は赤外線ではなくブルーライト、すなわち380~500nm程度の可視光線によることが天文教育普及研究会の有志による翻訳作業(2009年)で天文コミュニティーにも知られることとなりました(文献4)。その後の追跡調査によって眼科医や安全衛生の専門家は1970年代にはこのことを認知していたことが判明しました(文献5)。医療界での認識が30年以上も太陽を実際に観察する天文業界や、小~高等学校で太陽の観察を理科で行う教育業界で認知されなかったのは、各コミュニティー間で情報を共有する機会が乏しかったためでしょう。

2012年の日食観察においては、赤外線および可視光線での透過率に対して適切な用具(以下、日食グラスと表記)を用いて正しい使用法で観察するか、または、ピンホールカメラまたは木漏れ日のような間接的な方法で太陽を観察することを全国民に伝えることが求められました。これらのリスク・コミュニケーションに関しての取り組み例を3~5章で紹介します。

3. 国立天文台の対応

国立天文台は、金環日食の1年以上前から関係機関・団体と協力して、日食に関する情報提供、特に安全な観察を呼びかけてきました。日食現象の全国各地における詳細な予報データを提供するとともに、例えば国立天文台ウェブサイトやメールマガジン、ツイッター、フェイスブックを活用し安全な観察のための情報提供を繰り返し行いました[Y15b 新聞報道は2012年の金環日食をどう伝えたか 小野智子(国立天文台)]

日本科学技術振興機構(JST)科学コミュニケーション推進本部と協力して、JST発行の「Science Window」誌2012年春号に国立天文台が制作した「日食を安全に観察しよう」パンフレット(A4版カラー4ページ)、映像作品「日食を楽しもう」DVD(HD13分)、さらに日食グラスサンプルの3点セット(写真1)を同封し、全国のほぼすべての小・中・高校(約4万校)に配布しました。また、パンフレットも映像作品も著作権関係者の了解を得て、切り貼り自由というパブリックドメインに近い形で、ウェブから誰でもが利用できるようにしました。「日食を安全に観察しよう」パンフレットは全国からの要望に沿うよう10万部が希望者に配布されました[Y23a 2012年金環日食日本委員会の広報物はどのように使用されたか 大川拓也(2012年金環日食日本委員会)]

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写真1 学校への配布物:「Science Window」誌2012年春号に同封された「日食を安全に観察しよう」パンフレット、映像作品「日食を楽しもう」DVD、日食グラスサンプル。

4. 2012金環日食日本委員会の取り組み

一方、日本天文協議会2012金環日食日本委員会(以下、日食委員会と表記)もリスク・コミュニケーション活動を積極的に展開しました。

各参加団体・機関より計17名が日食委員となり、主に天文教育普及研究会選出の一委員が委員長役として日食委員会をとりまとめてきました(筆者は日食委員会の立ち上げに寄与し、委員ではなく国立天文台側の責任者として日食委員会メーリングリストにオブザーバーとして参加してきました)。

日食委員会は、日本眼科学会、日本眼科医会、文部科学省、国立天文台等と協力関係を構築し以下に述べる諸活動を推進しました。その中核メンバーの多くが日食に関して経験と知識を有し、ボランティア活動ながらアクティブな活動を展開しました。例えば、日食委員会は日本眼科学会、日本眼科医会とともに2011年12月に文部科学省に要望書を提出し、2012年2月には文部科学省初等中等局を通じて、安全な日食観察に関しての情報提供をすべての都道府県教育委員会等に送っています(文献6)。また、日食委員会のウェブサイトから安全な日食観察を促す種々の情報提供を行ったほか、2012年3月18日には日本天文学会2012年春季年会にて記者発表を行なうなどメディアへの積極的な働きかけを行っています。さらに、日本眼科学会、日本眼科医会の眼の安全を訴える啓発活動に協力し、「5月21日 朝 日食 じかに見ちゃダメ。」ポスターを共同で制作し共同で記者会見を実施したり、国立天文台等と共同で計4回のシンポジウムや日食直前の5月11日と17日の2回、文部科学省記者クラブにて記者会見を主催しています[Y09a 2012年金環日食を迎え撃つ;2012年金環日食日本委員会の活動報告 大西浩次(2012年金環日食日本委員会)]

5. 文部科学省の対応

2011年12月、国立天文台からの協力要請により、文部科学省研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)が、担当部署として日食リスクの対応にあたりました。その後、日食委員会や国立天文台と協同で、初等中等局を通じての各教育委員会への情報提供や、文部科学省ウェブのトップページにて注意喚起を促すなど、全般的には日食委員会等からの申し出に対してほぼ適切な対応でした。2012年3月には文部科学大臣他が直接、日食の情報を得るために国立天文台三鷹を訪問し、日食直前の5月18日を含め大臣の定例会見で2回、安全な金環日食観察を促す発言がありました。

ただし、国立天文台が文部科学省に要請した事項のうち、全国の学校での当日の対応を事前に把握すること、TV等のメディアで安全を訴える広告等を打つこと、当日の交通事故防止のため警察庁に協力を要請すること等は実現されませんでした。

6. リスク認知その2 不適切な日食グラスの流通

2012年5月10日、日食委員会に透過率が不適切な日食グラスが市販されているという情報が入りました。天文教育普及研究会の「日食の安全な観察推進ワーキング・グループ(以下、日食観察WG)の代表者は日食委員会の委員の一人であり、日食観察WGはそれまでも、日食グラスの透過率の測定を行い、その結果を天文教育普及研究会のウェブで公開していました[Y24a 日食観察グラスの安全性について 齋藤 泉(栃木県子ども総合科学館天文課)] 。このため、当該委員を中心に日食委員会は迅速にこの情報に対処しました。しかし、日食委員会は、翌11日の日食の安全な観察を促す情報提供のための記者会見にて、製品名を明らかにすることなく「明らかに危険な製品の見分け方」として、表1のように「可視光線を十分に減光している製品の多くは、かすかに蛍光灯を確認できる程度」と曖昧な表現を含む情報を記者に提供しました。

これに対し、複数のメディアが、「専門家は手持ちのグラスが適切かどうか確認してほしいと訴えている」等と報道しました。このため、多くの市民が市販されている日食グラスすべてを不信に思う結果を生み、個人の観察意欲減少や、日食観察会実施への学校等の消極的な対応を助長することとなりました。なお、当時、眼視による日食の直接観察用の減光用具は、メガネタイプのものやボードタイプのものなど、さまざまな素材・形態のものが40種類以上流通していたものと思われます。国立天文台の質問電話サービスにも記者会見以降は、「購入した日食グラスは安全なのか」との問い合わせ電話が殺到しました。全国の科学館や公開天文台のような関連施設、さらに日食グラス製造・販売業者もこの報道への対処に、商品名が公表される5月18日までの一週間を費やすこととなりました。この間、いわゆるクライシス状況が生じていたと判断されます。消費者庁とのやりとり等、日食委員会(特に日食観察WGメンバー)の献身的な活動が無ければ事態は更に深刻であったと考えられます[Y24a 日食観察グラスの安全性について 齋藤 泉(栃木県子ども総合科学館天文課)]

表1 日食グラス 「明らかに危険な製品の見分け方」主なチェックポイント
室内の蛍光灯を見て、一見して明るく、形がはっきりと見える製品 可視光線を十分に減光している製品の多くは、かすかに蛍光灯を確認できる程度。
可視光線を十分に減光している製品の多くは、かすかに蛍光灯を確認できる程度。 安全性の検討材料となる数値として、 可視光線で0.003%以下、赤外線で3%以下という目安があります。(あくまで目安)
LEDライトなどの強い光にかざした時に、ひび割れや穴が確認できるもの

2012年金環日食日本委員会のウェブページより引用

7. 日食のリスク・コミュニケーションに関する考察

一般にリスクとは(1)リスク源、(2)リスク認知、(3)リスク・コミュニケーション、(4)リスク評価、(5)リスク管理というプロセスから成ります(文献7)。今回の日食におけるリスク源は、「8300万人が目撃する」、「東京では173年ぶり」、「宇宙の奇跡」または「世紀の天文ショー」などと形容され多くの団体・個人が関心を寄せる金環日食が起こることであり、リスク認知は強い太陽光線による眼の障害発生でした。ここでは、リスク管理の観点を中心に今回の日食観察のリスクへの対応を考察します。

7-1 日食網膜症のリスク認知とその課題

広瀬(2000)によるとリスク・コミュニケーションとは、発生したリスク認知に対しての(a)リスク管理対応機構、(b)メディア・マスコミ、(c)集団・個人の三者間の相互のコミュニケーションのことです(文献8)。福島原発事故を参考に、今回の日食網膜症というリスク認知にたいしての日本におけるリスク管理対応機構とその関連機関を表2に示します。

表2 リスク関連対応機構の比較
リスク源 2009年皆既日食 2012年金環日食 福島原発事故
リスク認知 日食網膜症 日食網膜症 放射能漏れ
リスク管理対応機構
  • 文部科学省
  • 厚生労働省
  • 文部科学省
  • 厚生労働省
  • 消費者庁
  • 緊急災害対策本部
  • 官邸
  • 経済産業省
  • 原子力安全・保安院
  • 原子力安全委員会
関連機関・団体
  • (財)日本眼科学会
  • (社)日本眼科医会
  • 世界天文年2009日本委員会
  • 国立天文台ほか
  • (財)日本眼科学会
  • (社)日本眼科医会
  • 日本天文協議会2012金環日食日本委員会
  • 国立天文台ほか
  • 東京電力ほか

原発事故のような最大級のクライシス・コミュニケーションの場合、リスク管理が国によって行われていますが、日食観察の安全性、その中でも日食グラスの適正な流通については、国が明確な管理指針を示していません。2009年皆既日食の際も、大量に流通していた日食グラスに、遮光板部分が枠から外れているものや遮光板そのものが欠落したままの製品が日食直前に見つかり(文献9)、メディアでも大きく取り上げられました。しかし、その後も日食グラスの安全管理を国や関係機関は行っていません。一般にリスクとは被害の生起確率と被害の重大性の積として定義されますが10)、日食事故が数年に一度程度しか起こらないことと、被害の発生数が正確に把握されていないため、行政が日食観察のリスクを過小評価していると考えられます。また、本リスク認知においては安全・保安院や安全委員会のような行政システムも存在しておらず、十分なリスク認知が出来ていないばかりか、国全体としてリスク責任の所在が不明確です。

現在の学習指導要領・理科では、太陽の観察が小学校4年、中学校3年、高等学校の地学基礎、地学などで実施されています。さらに日常生活でも太陽を直視してしまう危険がありますので、国として日食網膜症の危険を認知し、日食グラスをはじめとする太陽観察用具の安全基準を策定し、工業製品としての規格を明確にすることを提案します。

英国の工業規格(BSi)には、太陽観察用の遮光板に関する規格があり、欧州全域でもCEがこの規格に準拠しています(文献11)。これに対し、日本工業規格(JIS)には太陽観察用の遮光板の規格はありません。このため、日本では波長毎の透過率として、Chou(1981)が定められた可視光領域(380nm から780nm)で透過率0.003%以下、近赤外線領域(780nm から1400nm)で透過率0.5%以下という目安(文献12)を、太陽観察用の遮光板の安全基準として製造業者が独自に判断している場合が多いようです(文献13[Y24a 日食観察グラスの安全性について 齋藤 泉(栃木県子ども総合科学館天文課)]。日食グラスを太陽観察用の工業製品として流通する上では、グラス部分で用いられる遮光版の波長透過率のみならず、遮光板の平行度・屈折力等の光学的性質のほか、遮光板やフレーム部分の耐久性、安全性なども考慮にいれて工業規格を確立すべきでありましょう。また、ブルーライトが日食網膜症の主たる原因であるため、近赤外線領域の透過率はChou(1981)の目安より大きめでよいとの主張もあるようです11)。

7-2 不適切な日食グラスの流通に対しての5.21日食でのリスク管理

透過率が明らかに不適切な日食グラスが、日食11日前という直前に見つかった今回のケースの場合、どのような対処が適切であったのでしょうか。本件の時系列での概要(表3-1)と、発覚後に交わされた日食委員会メーリングリスト(ML)のログ解析結果(表3-2)を示します。本件に関して交わされたML上でのメールは63通でした。

表3-1 不適切な日食グラスをめぐるリスク管理の流れ
日数 日付 出来事
初日 5月10日 不適切な日食グラスの情報が日食委員会へ
2 5月11日
  • 午前10時 画像で日食グラスの情報を入手
  • 午後3時 記者会見(事前から予定されていた会見)>
  • 夕方 新聞報道が始まる
3 5月12日 日本委員会への問い合わせやツイッターでの発言増える
4 5月13日
5 5月14日 消費者庁に問題のグラスが提供される
6 5月15日
  • 問題のグラスを日本委員会の委員が入手
  • 消費者庁が販売を止めるよう業者に連絡
7 5月16日 業者が自主回収を開始
8 5月17日
  • 午後5時 記者会見 製品名を述べず
  • 夕方 ML参加の個人が商品名をツイッターで公表
9 5月18日
  • 午前中 文科省へ商品名公表の協力依頼
  • 午後 日本委員会のウェブサイトに商品名を公表
  • 夕方 テレビのニュースで商品名を挙げて報道
  • 午後9時 消費者庁が商品名を公表
10 5月19日 新聞各紙で報道
11 5月20日
12 5月21日 金環日食・部分日食
表3-2 日食委員会メーリングリスト上で進んだリスクへの対応の流れ
日数 MLメンバー A B C D E F G H I J K L X Y
  役割など 責任者 WG代表 委員 委員 委員 委員 委員 委員 委員 委員 委員 委員 Obs Obs
1 5月10日     1       5 3 4     2
        6           7        
      9 8                      
2 5月11日     10           11          
3 5月12日     14 18 16     15 17 13 12    
            19                
            20                  
4 5月13日   21   22 24               23  
5 5月14日   26 25           27        
      28                        
6 5月15日   29             30        
      31 32                    
      33                      
      34                        
7 5月16日     36 38 35       37        
      40   39 41                
8 5月17日   45     43       42         44
9 5月18日     46                    
        47   49 48              
      51 52   50                 53
            55                 54
        57   58                 56
        59                    
      60                      
      61                        
10 5月19日     62                 63    
  • 表の中の数字は発言の順番を示す。
  • 役割などの欄のObsはML参加のオブザーバーを示す。日本委員会メンバーは計17名、MLにはさらにオブザーバーが2名参加。
    • 商品名公表にポジティブな発言、15件
    • 商品名公表にネガティブな発言、6件
  • ML参加者19名中、ネガティブ発言は4名による6件に過ぎないが、意思決定への影響力は高く9日目(5/18)まで公表が遅れた。
    • 太字は、5/11記者会見での曖昧な表現を問題視する発言、商品名公表意見と相関あり。
    • イタリックは、消費者庁が商品名を公表することを期待する発言と消費者庁への働きかけの報告。

当初、各発言は商品名をすぐに公表する事に積極的でした。また、即座に消費者庁に連絡を取っており、初動としては概ね適切な対応であったと考えられます。しかし、あるML参加者から実際に物を見ていないことによる情報の不確実さの指摘を受け、11日の記者会見では商品名を公表しませんでした。その後、不適切な日食グラスの見分け方について、会見での表現の曖昧さを指摘する発言がMLで相次ぎましたが、結局、委員会としては適切な解を見出せないまま議論が終わっています。一方、13日以降、WG代表を中心に販売業者に公開質問状を出すことが検討されましたが、ML内で判断されることはなく公開質問状は発送されませんでした。販売業者は16日から自主回収をはじめ、国立天文台や文部科学省からの働きかけもあり、18日には消費者庁と日食委員会が商品名を公表しました。ただし、日食委員会は17日の記者会見でも商品名の公表を見送っています。ログを見ると委員間で2回の記者会見前に商品名を明かすかどうかを議論し合意した形跡はありません。販売した業者によると売れたのは42個(そのすべてを回収済み)とのことですが、日食グラスは危険という印象を一般の集団・個人に与えた影響は大きいと考えられます[Y24a 日食観察グラスの安全性について 齋藤 泉(栃木県子ども総合科学館天文課)]

ログ解析から分かることは、主に次の6項目です

  1. MLメンバー間での意思疎通が不十分で、生じた葛藤や論争を解決できていない。
  2. 日食委員会責任者の判断がML上で示されていない。
  3. 任意の委員会が商品名を挙げることで、販売業者から訴えられるのではというリスクへの分析・判断が不十分であった。
  4. 消費者庁がリスク管理対応機構として機能するのではという期待。しかし、実際には消費者庁の動きが予想以上に遅く、商品名公表が遅れた。
  5. 慣れていない記者会見に対し、事前の意思疎通が不十分であった。
  6. リスク・コミュニケーションの経験や知識を委員が持っていなかった。

今回の結果からの推論は、一般にリスク管理の経験が少ない任意団体の場合、メンバー内の保守的な意見に引きずられ、集団としては保身的な対応になりやすいのではないかという懸念です。意思決定に関わるメンバーの誰でもが一定水準以上のリスク・コミュニケーションの知識を有することが適切な判断の上で重要と考えられます。また、意思決定のルールを明確にし、責任の所在を明らかにしておくこともリスク管理の上で極めて重要であると感じました。

リスク管理において安全対策の基本は、リスクを制御する、除去する、維持する、の三段階であるそうです14)。また、吉川(1999)によると、政府に頼り過ぎないこともリスク管理の基本であるそうです(文献10)。表4に福島原発事故に対比して今回の不適切な日食グラスへの対策を示します。今回の場合、まずは不適切な日食グラスの発売中止(制御)・回収(除去)すべきであったと考えられます。しかし、販売中止・回収といった消費者庁等のリスク管理対応機構の迅速な対応が期待できないと判断した時点で、関連機関・団体として日食委員会と関係者は商品名の公表をまずは実施すべきでした。さらに、日食委員会としては、リスク情報の公開において受け手が判断に迷うような曖昧な表現は避けることと、公開すべき内容の十分な吟味(この場合は商品名を告げないと、受け手は不安からクライシスが発生することへの警戒)が必要でした。このことはリスク管理上、一般に陥り易い過ちとして、今後のリスク・コミュニケーション時に配慮されることが望まれます。

表4
リスク管理手順 福島原発事故 不適切な日食グラス対策
制御する 止める 発売を禁止
除去する 冷やす 商品回収
維持する 閉じ込める 安全な観察参加への呼びかけ

8. 日食リスク・コミュニケーション活動の成果と評価

次に、安全な日食観察を促す今回のリスク・コミュニケーション活動の成果を評価する上で必要なため、2012年5月21日に日本で日食を見た人の数を推定しました。

ウェザーニューズの発表によると当日7時45分時点で全国の63%で日食が見えたそうです(図2)。当日、九州地方の多くと四国南部、静岡県東部から神奈川県西部にかけて太陽が見られない天候でしたが、それ以外はほぼ全国的に日食が見られる天候であったと推察されます。朝6時台から9時台にかけての2時間半程度という日食経過時間を考慮すると、これよりも多いおよそ7割以上の地域で、当日晴れ間から日食が見えたと考えてよいでしょう。

表5に日食グラスの売り上げ数を示します。日食グラス製造・販売業者への調査から、推定で1,200~1,300万枚程度の売り上げがあったと考えられます。これらには、書籍や雑誌等の付録として配布された数も含まれます。また、シート状でカットして使うタイプの物についてはサイズによってカットされた数を想定しました。販売された日食グラスのうち約7割が使われたと考えると、およそ900万~1,000万枚程度が観察に使われたと考えられます。

日食グラスの買い置きや学校の備品としての遮光板の利用、さらに日食グラスを複数名でシェアして観察するケースも考慮する必要があります。一方、多くの学校等で日食観望会が当日開催され[Y14b 全国調査からわかった学校における金環日食に対する取り組みの状況 飯塚礼子(日食情報センター)] 、望遠鏡で投影して観察したケースや、ピンホールや木漏れ日による間接法での観察者、さらに薄雲を通して裸眼でも観察が可能な場所が多かった当日の天候(写真2)等から推論すると、少なく見積もってもおよそ2千万人、すなわち国民の2割弱が日食を目撃したのではないかと推定されます。このうち、金環日食を目撃した人は1千万人前後でしょう。なお、これらは有効数字一桁程度の概算値であることを明記しておきたいと思います。

表5 日食グラスの売り上げ概数(推定値含む)
製作・販売会社名(仮) 販売枚数[万枚] 根拠
A社 350 聞き取り結果
B社 200 聞き取り結果
C社 100 聞き取り結果
D社 80 聞き取り結果
E社 25 聞き取り結果
F社 130 伝聞・報道
G社 70 伝聞・報道
H社 100? 未回答(推定値)
I社 200? 未回答(推定値)
合計 1255  

注:ここで調べた9社以外にも流通した日食グラスがあることに注意

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写真2 薄雲を通しての金環日食:当日は国内の広範囲で薄雲が発生し、直接裸眼で太陽が見えてしまう状況下で、多くの人が眼を痛める危険性が高かった。東京都港区にて筆者撮影

日本眼科学会は2012年6月末を期限に、今回の日食で生じた眼の障害について調査を実施しました[Y25a 5月21日金環日食による眼障害の発生状況 大鹿哲郎(日本眼科学会)]。中間報告(文献15)によると、日食によって視力の異常を訴える症状は958例(男性288例、女性670例)報告されています。そのうち、眼底に異常が見られたのは80例でした。 当日、日食を観察した人を2千万人とすると、眼の異常を訴えた人の割合は2万人に一人(0.005%)、眼底異常が認められた割合は25万人に一人(0.0004%)となります。

前述のように1912年のドイツ日食の際には、3,500名の日食網膜症患者が発生しています1)。また、1962年に南太平洋で起きた皆既日食の際、部分日食となったハワイ州において52人が眼の障害を訴え、1970年に南太平洋から北大西洋にかけて見られた皆既日食の際は、皆既帯が通過したフロリダ半島とその周辺域で、145例の眼の障害が報告されています(文献16)。残念ながら、この3つのケースとも実際の日食観察者数の記録は見つけることが出来なかったため、比較のため、該当地域の人口と観光客数を母数として比をとると表6のようになり、大まかな推定値ではありますが、今回の日食で生じた眼の障害は明らかに1912年ドイツ、1962年ハワイより発症率が低く、1970年フロリダと比較しても僅かながら発症率は低かったと考えられます。このように今回の日食における日食網膜症発生率は、過去の日食における網膜症発生率より低いと推定してよいでしょう。

表6
年日(UT) 1912年3月30日 1962年12月28日 1970年11月26日 2012年5月21日
日食帯 大西洋・ヨーロッパ 南太平洋 南太平洋・北大西洋 日本・北太平洋・北米
調査地域 ドイツ ハワイ州(部分食) フロリダ州 日本全域
人口(観光客含む)推定 7000万人? 100万人 1600万人 1億3千万人
日食観察推定者数 不明 不明 不明 2000万人
眼の障害 3500 52 145 958
眼の障害/人口 5×10-5 5×10-5 9×10-6 7.4×10-6

なお、日本眼科学会15)によると、症状を訴えた患者の22%は、アンケート調査で眼障害の危険性を事前に知らなかったと回答しています。メディアからの情報提供の課題として、今後いかに情報を広く集団・個人に伝えるかをさらに詳しく検討していきたいと思います。また、危険性を事前に知っていた78%の人が、なぜ、適切な観察が出来なかったのかを考察する必要があります。

9. まとめ

日本の天文コミュニティーが総力を挙げて取り組んだ2012年5月21日日食におけるリスク回避の取り組みをリスク・コミュニケーション面において検証しました。日食委員会や国立天文台が中心となって全国で積極的なリスク・コミュニケーション活動が展開され、日食網膜症の発症を減らす等の成果が得られました。その一方、不適切な日食グラスへの対応において、メディアや団体・個人への伝達に曖昧な表現が含まれていて混乱を招いたり、商品名の公表が遅れたりと反省すべき問題が生じました。突発的なリスク発生に対し、適切なリスク・コミュニケーションを行うことの難しさが浮き彫りになったと言えます。

今回の日食では日本において推定2千万人が日食を観察したと結論づけられます。金環日食を目撃した人は1千万人前後と推測されています。報道によると当日は日食観察に関わる目立った事故やアクシデントはありませんでした。日本眼科学会が眼に障害を生じ眼科医を受診した人の数を調査中ですが、過去の日食時に比べ日食網膜症の発症率は低かった可能性が高いと思われます。

本研究より、一般にリスク管理対応機構及び関係機関・団体においては、リスク管理の体制を明確にし、情報を共有するとともに責任の所在を明らかにすることが重要と認識しました。また、任意の民間団体やボランティア活動を主体とする団体のみではリスク評価やリスク管理が不十分になりがちなことが分かりました。また、リスク管理に関わる全員が一様に一定レベル以上のリスク・コミュニケーション能力を有することが意思決定において重要であると分かりました。

今回の事象のように、一般に科学コミュニティー内ではリスク・コミュニケーションに関しての経験や理解が不十分であると推察されます。通常、サイエンス・コミュニケータがリスク・コミュニケーションを経験する機会は希なので、出来れば、今回のようなリスクに直面したとき、相談の窓口となる機関があるとよいと思われます。

最後に、日食観察のリスク・コミュニケーションを積極的に遂行して下さった日本天文協議会2012金環日食日本委員会と、太陽光線の危険性についてご指導下さった奥野勉氏と川村晶氏に感謝の意を記します。なお、本研究では日食委員会の活動を中心に検証しましたが、実際には全国各地で積極的に日食のリスク・コミュニケーションを行った天文コミュニティーの仲間や、眼への危険性を組織的な活動で訴え続けた日本眼科学会や日本眼科医会の皆さんがおり、これらの活動すべての総体として、全国で一律に日食網膜症の発症率を押さえる等のリスク回避が出来たことを明記しておきたいと思います。次回の日食において、眼の障害を起こさないために本発表が少しでも役立つことを願ってやみません。

文献

  1. 尾花明他:2009年皆既日食による眼障害の発生状況,日本眼科学会雑誌,115(7),589-594,2011. 
  2. 奥野勉:環境中の紫外線放射,光,赤外放射による障害,産業医学レビュー,4(4),35-61,1992.
  3. International Commission on Non-Ionizing Radiation Protection:Guidelines on Limits of Exposure to Broad-Band Incoherent Optical Radiation (0.38 to 3µm). Health Physics 73 (3), 539-554; 1997.
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  13. 天文教育普及研究会 日食の安全な観察推進ワーキンググループ:太陽観察用各種フィルタ類およびその代用品の透過率測定,日食情報ページ,2012.
  14. 福島原発事故独立検証委員会:『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』,pp.34,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2012.
  15. 大鹿哲朗他:『5月21日金環日食による眼障害の発生状況』,日本天文学会秋季年会, Y25a,2012.
  16. Lucian V. Del Priore:「Eye Damage from a Solar Eclipse」, Littmann,Espenak,and Willcox, 『Totality Eclipses of the Sun』 Third Edition, pp156-157,OXFORD,2006.

掲載誌

本研究は、2012年11月刊行予定の『日本サイエンスコミュニケーション協会誌 Vol.1 No.1 2012年 p.68-75』(一般社団法人 日本サイエンスコミュニケーション協会)に掲載されます。